江戸時代に筑波山参拝の門前町として栄えた「北条」。
江戸時代に筑波山参拝の門前町として栄えた「北条」。
歴史的な店蔵や土蔵の街並みが今でも残されています 。
北条を横断する古代からの道路は、城山(じょうやま)の山裾を通る細い道です。
現在の商店が立ちならぶ通りは、戦国時代末から江戸初期にかけて人為的に作られたと考えられています。
一本の通りを町ごとに3ヶ所でカギの手に曲げ、西から「内町」「仲町」「新町」の順に屋並みができていきました。内町に陣屋が置かれ、家臣が住居をかまえるようになると、おのずと生活に必要なものを調達する商人が生まれてきました。定期市がたち、日用品や農産物などの販売が行われていた記録や石の祠(ほこら)が残されています。
経済・政治の中心地として発展してきたまち。
北条が飛躍的に発展する契機となったのは、寛永3年(1626年)に三代将軍徳川家光が、筑波山の中禅寺(現在の筑波山神社)堂社再建のための資材運搬路を整備したことに由来します。この運搬路は後に「つくば道」と呼ばれ、北条仲町を起点に、中禅寺への参詣道として江戸方面からたくさんの善男善女が行き来するようになります。
これにより、北条は門前町の機能を有しつつ、多くの商人や職人が居住するようになり、街並みが形成されていきました。この地域は農産物の一大集散地でもあったため、酒や醤油の醸造、油の製造、木綿の取引きなどが活発に行われ、それらを扱う大店(おおだな)が誕生しました。さらには多くの旅籠や日用品販売などすべての業種がそろう在郷商人町が形成され、経済・政治の中心地として発展していくのです。
町場は火災が多く、たびたび大火に見舞われています。このため貴重な資料となる古文書がほとんど残されていません。文化8年(1811年)にあった大火の後から防火性能を持つ土蔵造りの店蔵が軒を連ね、見事な街並みが生まれました。今でも数多く残る店蔵や土蔵は歴史を語る上で貴重な存在になっています。